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Shinjuku
11月14日-11月21日まで東北に取材にでかけます。
山口までのご連絡はlopez22@foto-finito.comか、携帯電話までお願い致します。
怪我なく帰れる事を我が身ながらに願います。(笑)
山口裕朗 東北山行
グラビアアイドルと呼ばれる女性と、10年の歳月を経てボクシングに帰ってきた男がリングに立った夜。
2008年11月11日、後楽園ホールのリングにメインイベンターとして生田真敬くん(ワタナベ)が上がるので、生田くんの写真を撮りに行きました。
前座には、僕のボクサー時代の先輩 新田渉世さんの新田ジムから選手が出場していたので、彼らの写真も撮影させてもらったんです。
デビュー戦を迎えた松島利也子さんは、タレント活動の“売り“としてボクシングをはじめたそうです。
今年5月、後楽園でのエキシビジョンに登場した時に初めて松島さんのボクシングを見たのですが、そのぎこちない動きは、けっして運動神経が良いとはいえないように感じました。
それが、プロボクサーとしてリングに立つ事になった。
ライセンスを取得しただけは“売り”として弱く、試合をしないと“売り”にはならないのかもしれませんが、試合は顔面を殴られるという前提が確実にある訳で、覚悟を持ってリングに上がったという事です。
当初の目的が、真剣にボクシングに取り組むうちに少しずつ変化していったのではないでしょうか。
リングに上がるまで、青コーナーの選手が出番を待つ薄暗い階段に佇む彼女の表情には、緊張と恐怖心が張り付いていましたが、その眼差しには覚悟を決めた力強さを感じました。
試合がはじまると、ほぼ一方的な展開になり、2ラウンドTKOに散りました。
敗れましたが、立派な戦いっぷりでした。
試合後、沢山の記者さんやカメラに囲まれての会見を終えて、控室に戻る途中、通路で知人と会うと、こらえてきた涙が彼女の頬を伝いました。
今のままではまだまだ力不足の感は否めない。
もっともっともっと強くなって、リングに戻ってきてほしい。
帰ってきた男、柳 直大さん(当時:オークラジム)は、1998年9月のA級トーナメント準決勝で敗退し、ボクシングを離れました。
それが、今年の7月28日に新田ジム所属のボクサーとして、再びリングに上がり、10年ぶりの試合に臨みましたが、判定負けでした。
試合後の控室通路で、新田ジム トレーナーの孫くんから、
「やまちゃん、昔 木谷さんと試合した柳だよ。 やなぎ なおひろ。」
と言われ、その名前に聞き覚えがある事に気がつきました。
1998年3月27日、僕のジムメイトの木谷卓也が柳直大と対戦したリングは、僕が日本ランカーの康哲虎(カンチョルホ)(千里馬神戸)さんに倒された夜だったので、その名前はおぼろげながら覚えていました。
試合前、柳さんの発する静かな空気が絵になると感じ、レンズを向けさせて頂きました。
試合は、次第に正面からの打ち合いになり、判定で勝利し、実に11年ぶりに勝利を味わいました。
控室で、ボクシングに帰ってきたお話を少しだけきかせてもらいました。
22歳でボクシングを辞めてからアメリカに渡り、ニューヨークのお寿司屋さんで働きながら、次第にボクシングへの興味がわき始めた事もあって、ジムでトレーナーとして活動をし始めたそうです。
そして、書店で手に取ったボクシングの本で新田さんの事を知り、この人の所でもう一度やりたいと思い、8年半のアメリカ滞在を終えて帰国しました。
隣でトレーナーの孫くんが、
「柳は本当にすごいよ。 本当にすごいよ。」
と潤んだ目で口にすると、
「孫さん、会長、皆が・・・」
柳さんは目をタオルで被いました。
「やり通してないまま辞めて、次の人生で自信持てなくて、何をやってもうまくいかなかった。」
今は、ジムの近所に住み、近くのパチンコ屋さんで働き、ボクシングの為の生活を送っているそうです。
32歳という年齢、チャンピオンにならなければ4年後にプロボクサーの定年で引退する時がきます。
その後の人生を考えれば焦りを感じるかもしれない。
やり通した実感を持てずに辞めれば、何をやってもうまくいかないと感じ、再びリングに上がる道を選んだ柳さん。
また写真を撮らせて下さい。
メインイベントに登場した生田くんは、タイ人選手を相手と頭をつけて近距離で打ち合い、見事5ラウンドにKO勝ち。
適当な所で手をついてしまうタイ人ボクサーが少なくない中、この日の選手は勝ちたい気持ちを強く持った選手だと、その戦いぶりからわかりましたが、その相手に打ち勝ち、チャンスを逃さなかった生田くんは流石です。
日本ランキングボクサーとの対戦が待ち遠しい選手です。
ジムに通い始めてから半年も経った高校2年の秋、アマチュアの試合に出てみないかとマネージャーから声をかけられた。
アマチュアでのキャリアを持たずにプロで活躍するボクサーはたくさんいるが、私の通っていたジムでは、アマチュアで何戦かのキャリアを積ませる事が多かった。
それは、弱冠16歳で全日本社会人選手権を制し、プロ転向後 東洋バンタム級タイトルを12度防衛、世界タイトルに4度挑み2敗2分という戦績を残した非運の名ボクサー村田英次郎さんがジムの大先輩として存在していたからではないかと推測する。
14オンスグローブでのスパーリングで殴り合う事のスリルはわかっていたが、アマチュア高校生は10オンスでの試合となる。その未知の痛みがどんなものなのか知りたかった。そして、いずれプロになりたいと考えはじめていた私にとって、記録として結果が残る試合のリングの緊張感も味あわねばならないものだと思っていた。
通っていた高校に名義だけのボクシング部をつくってもらい、新人戦にエントリーした。
ほとんど普段の体重であるフェザー級でエントリーしたので、減量らしい減量は経験しなかった。
しかし、試合当日になると、胃が落ち着かないとでもいうのか、朝食べたものが消化しきれていないような重さを感じる。
会場である北区の学校には立派なリングがあった。その学校は、都内でも屈指の強豪だった。校門をくぐる時に、膝が笑いはじめた。
私をボクシングに引き戻したクラスメートのKは再軽量級でエントリーしていて、私よりも先にリングに立った。色白のKの肌からは、うすいピンク色の色味が消え去り、ざらついた青白さに変色していた。そのどす黒く変色した唇を目の当たりにした私は、かける言葉を見つける事が出来なかった。
Kはリングに上がると開き直ったのか、ジムでのスパーリングで見せるきびきびとした動きから細かいパンチを繰り出し、2分3R、計6分間のデビュー戦を判定で飾った。
息を切らせながらリングを下りてきたKは饒舌だった。Kのグローブを外しながら、Kの話など全く耳に入らぬ程、すでに私は放心していた。
グローブのヒモを結ばれながら、私を支配していたのは、『恐さ』だった。
まさしく死刑台に上がる死刑囚の気持ちだった。
その『恐さ』を増幅させていたのが、私の対戦相手が、昨年度の同大会の優勝者であったからだ。
リングに上がると、相手の応援ばかりが耳に入る。そこにいる私の味方はKとマネージャーのたった2人だけだった。
そこから一刻も早く下りる為には、相手をぶっ倒すか、自分が手をつくかのどちらかしかない。
私には、自分から手をつくという選択はなかった。かといって、相手をぶっ倒そうだなどという大胆な思いも持てなかった。
あれほど復唱し続けてきた『勝ちたい』などという言葉は、迷いの中でかき消されていた。
私の動揺を見透かした相手はゴングが鳴ると、息をつかせぬ連打でたちまち私をロープにつめた。恐さから逃れたい一心でくっつき クリンチをすると、レフェリーからホールドの減点をとられた。
2度程ホールドで減点をされた時だろうか、マネージャーの声が聞こえた
「もう一回減点とられたら失格負けだぞ!」
もうあとは無い。10オンスで殴られる痛みなど、どうでもよくなっていた。
再開後もロープにつめられ、連打の雨にさらされた。しかし、荒くなってきた相手の息づかい聞こえ、パンチのスピードが落ちているように感じた。
このままではストップされてしまう、危機迫った私はやぶれかぶれに右のパンチを出した。
何がおきたのかわからないが、相手の目がうつろに泳ぎ、その体をロープにもたせようとしているではないか。
がむしゃらにパンチを繰り出した。
コンビネーションとかモーションとか、そんなものはどうでもよかった。
ただひたすら左右のストレートを繰り出し、がむしゃらに相手の顔面を殴りつけた。
ロープに釘付けになる相手と、何かに取り憑かれたように殴り続ける私との間に突然レフェリーが割って入った。
静まり返った会場が、ボクシング会場とは思えぬ異様な空気を醸していた。
「何故試合が終わったんだ・・・。」
何がおこったのか、理解出来なかった。
するとレフェリーは淡々とわたしのKO勝利を告げ、初めて自分が勝った事を理解した。
それは、後楽園で見ていた華やかなKO勝ちの光景ではなかった。
マネージャーの「やっぱパンチのあるやつは得だな〜。」という言葉は耳に残っていた。
そして、門をくぐる時にはじまった膝の震えはすっかりおさまっていた。
翌日の2回戦はフットワークを使う相手を追いきれず、なんとなく敗れてしまった。
私の気持ちは、前日のデビュー戦でぷっつりと途切れ、この2日間で何を手に出来たのかわからぬまま、初めての試合が終わった。
<つづく>
私とボクシング バックナンバー
埼玉県 熊谷のレストラン「LIGARE(リガーレ)」の撮影をさせて頂きました。
レストラン「LIGARE(リガーレ)」
先輩、後輩、その二人が殴り合った夜・・・
昨夜、後楽園ホールで行われた、第65回東日本新人王 決勝戦、バンタム級は新田ジムに所属する片桐秋彦くんと古橋大輔くんが戦いました。
片桐くんは、いいタイミングでストレートを当てていく長身のボクサータイプ。
古橋くんは、コンビネーションと手数で戦うボクサーファイター。
試合開始のゴングが鳴ると、古橋くんが積極的に仕掛けます。
片桐くんも正面から迎え撃ちます。
互いに引かず、緊迫した好試合になりましたが、攻勢をとっていた古橋くんがポイントを奪い、判定で古橋くんが東日本新人王を獲得しました。
敗れた片桐くんは、爽やかな笑顔で勝者を讃え、古橋くんは、こらえてきた思いが、ドッと溢れ出てきました。
リングサイドで新田会長が、目を真っ赤にしていました。
古橋くん、東日本新人王と敢闘賞受賞おめでとう!
片桐くん、素晴らしい戦いだった。
負けに負けるな!
この後、帰宅して一人になると、二人の表情は逆転しているかもしれません。
敗れて悔しくない訳はないし、勝って嬉しくない訳もない。
明暗のコントラストが強い勝負の世界は、ますます僕を虜にしていきます。
新田ボクシングジム オフィシャルサイト
心打瞬撮 Heart Beat Photograph バックナンバー「友を殴る」
Box-on! 連載コラム 『ショーセイのリング人生道場』
パンチが空を切る音を聞いた。
OPBF(東洋太平洋)スパーフェザー級(58.9kg)タイトルマッチ、チャンピオン “ノックアウトダイナマイト” 内山高志(ワタナベ)が文柄主(韓国)を迎えての3度目の防衛戦が昨夜、後楽園ホールでありました。
試合前、内山君の控室に挨拶に行くと、ダイナマイトは僕の姿を見つけると、いつものように爽やかな笑顔で、「こんにちは」と声をかけてくれました。
そして、シャドーボクシングをはじめます。
彼が鋭いパンチをくり出す度に
“ビュッ”
っと、パンチが空を切る音が聞こえるんです。
ボクサーは、パンチを打つ時に“シュッ”と言いますが、内山くんのそれは、口から発せられた音ではないんです。
16の頃からボクシングを見てきていますが、パンチが空を切る音を出すボクサーと出会ったのは、おそらく初めてです。
今日もこのパンチで観客を魅了するのだろうとワクワクします。
豊富なアマチュアキャリアで培われた技術力で試合を支配し、強いパンチで相手を仕留め、これまで10戦10勝(7KO)のチャンピオンが、ダウン経験がなく、9勝(7KO)5敗と、KOパンチを持っているチャレンジャーどう戦うのかに注目しました。
1ラウンドは、内山さんもジャブをついて様子を見ながら時折強烈な左右ボディーを叩き込む展開ではじまりました。
2ラウンドからは、ぐいぐい前に出てくる挑戦者と頭をつけて、真っ向から打ち合いにいき、ボディーを狙います。
3ラウンドもタフな挑戦者のボディーを叩き、ガードの間からアッパーを叩き込みますが、挑戦者が顔色を全く変えないのを見ると、この選手はきいていないのかも、と自分のパンチに疑いを持つかもしれません。
しかし、相手はだって人間です、これだけ強烈なパンチを打たれてダメージを負わないわけはないんです。
4ラウンド、左ボディーで挑戦者がロープに下がると、一気にたたみ掛け、相手は崩れ落ちました。
4ラウンドTKOで3度目の防衛に成功しました。
控室で、記者の皆さんに囲まれての取材を受けます。
隣には渡辺会長と、トレーナーの洪東植(ホン・ドンシク)さんが座っています。
洪さんは、内山くんの右手に氷嚢をのせながら、温かい眼差しで彼を見守っている、その姿が洪さんと選手の絆を感じさせます。
以前、洪さんと内山くんが一緒に写っている写真を内山くんに渡した時に、
「山口さん、この写真洪さんに渡してもいいですか? 二人で写っている写真を洪さんあんまり持っていないと思うんで。」
「ちゃんと洪さんの分も用意してあるから大丈夫だよ。」
洪さんと内山くんの絆の深さ、この人が側に居てくれれば安心する、そんな人と巡り会えた内山くんが羨ましく感じました。
3度目の防衛おめでとう!!
Talk is cheap 新田渉世『戦士と語る』洪東植トレーナー
放熱の破片バックナンバー