私とボクシング Vol.3
ジムに通い始めてから半年も経った高校2年の秋、アマチュアの試合に出てみないかとマネージャーから声をかけられた。
アマチュアでのキャリアを持たずにプロで活躍するボクサーはたくさんいるが、私の通っていたジムでは、アマチュアで何戦かのキャリアを積ませる事が多かった。
それは、弱冠16歳で全日本社会人選手権を制し、プロ転向後 東洋バンタム級タイトルを12度防衛、世界タイトルに4度挑み2敗2分という戦績を残した非運の名ボクサー村田英次郎さんがジムの大先輩として存在していたからではないかと推測する。
14オンスグローブでのスパーリングで殴り合う事のスリルはわかっていたが、アマチュア高校生は10オンスでの試合となる。その未知の痛みがどんなものなのか知りたかった。そして、いずれプロになりたいと考えはじめていた私にとって、記録として結果が残る試合のリングの緊張感も味あわねばならないものだと思っていた。
通っていた高校に名義だけのボクシング部をつくってもらい、新人戦にエントリーした。
ほとんど普段の体重であるフェザー級でエントリーしたので、減量らしい減量は経験しなかった。
しかし、試合当日になると、胃が落ち着かないとでもいうのか、朝食べたものが消化しきれていないような重さを感じる。
会場である北区の学校には立派なリングがあった。その学校は、都内でも屈指の強豪だった。校門をくぐる時に、膝が笑いはじめた。
私をボクシングに引き戻したクラスメートのKは再軽量級でエントリーしていて、私よりも先にリングに立った。色白のKの肌からは、うすいピンク色の色味が消え去り、ざらついた青白さに変色していた。そのどす黒く変色した唇を目の当たりにした私は、かける言葉を見つける事が出来なかった。
Kはリングに上がると開き直ったのか、ジムでのスパーリングで見せるきびきびとした動きから細かいパンチを繰り出し、2分3R、計6分間のデビュー戦を判定で飾った。
息を切らせながらリングを下りてきたKは饒舌だった。Kのグローブを外しながら、Kの話など全く耳に入らぬ程、すでに私は放心していた。
グローブのヒモを結ばれながら、私を支配していたのは、『恐さ』だった。
まさしく死刑台に上がる死刑囚の気持ちだった。
その『恐さ』を増幅させていたのが、私の対戦相手が、昨年度の同大会の優勝者であったからだ。
リングに上がると、相手の応援ばかりが耳に入る。そこにいる私の味方はKとマネージャーのたった2人だけだった。
そこから一刻も早く下りる為には、相手をぶっ倒すか、自分が手をつくかのどちらかしかない。
私には、自分から手をつくという選択はなかった。かといって、相手をぶっ倒そうだなどという大胆な思いも持てなかった。
あれほど復唱し続けてきた『勝ちたい』などという言葉は、迷いの中でかき消されていた。
私の動揺を見透かした相手はゴングが鳴ると、息をつかせぬ連打でたちまち私をロープにつめた。恐さから逃れたい一心でくっつき クリンチをすると、レフェリーからホールドの減点をとられた。
2度程ホールドで減点をされた時だろうか、マネージャーの声が聞こえた
「もう一回減点とられたら失格負けだぞ!」
もうあとは無い。10オンスで殴られる痛みなど、どうでもよくなっていた。
再開後もロープにつめられ、連打の雨にさらされた。しかし、荒くなってきた相手の息づかい聞こえ、パンチのスピードが落ちているように感じた。
このままではストップされてしまう、危機迫った私はやぶれかぶれに右のパンチを出した。
何がおきたのかわからないが、相手の目がうつろに泳ぎ、その体をロープにもたせようとしているではないか。
がむしゃらにパンチを繰り出した。
コンビネーションとかモーションとか、そんなものはどうでもよかった。
ただひたすら左右のストレートを繰り出し、がむしゃらに相手の顔面を殴りつけた。
ロープに釘付けになる相手と、何かに取り憑かれたように殴り続ける私との間に突然レフェリーが割って入った。
静まり返った会場が、ボクシング会場とは思えぬ異様な空気を醸していた。
「何故試合が終わったんだ・・・。」
何がおこったのか、理解出来なかった。
するとレフェリーは淡々とわたしのKO勝利を告げ、初めて自分が勝った事を理解した。
それは、後楽園で見ていた華やかなKO勝ちの光景ではなかった。
マネージャーの「やっぱパンチのあるやつは得だな〜。」という言葉は耳に残っていた。
そして、門をくぐる時にはじまった膝の震えはすっかりおさまっていた。
翌日の2回戦はフットワークを使う相手を追いきれず、なんとなく敗れてしまった。
私の気持ちは、前日のデビュー戦でぷっつりと途切れ、この2日間で何を手に出来たのかわからぬまま、初めての試合が終わった。
<つづく>
私とボクシング バックナンバー