私とボクシング Vol.2
「リングの上でなら死んでもいい。」
私にとっての全てとなっていたボクシングに魅了されたのは、思い返してみれば中学3年の秋だった。
深夜、偶然つけたテレビに映る鬼塚勝也が、韓国ランキングボクサーをボディーブローで悶絶させる姿を見た瞬間、私の背筋に電流が走った。
それは、一度も味わった事のない衝撃だった。
それまで、ボクシングというものに興味を抱いたことすらなく、浜田剛史が1Rノックアウトでレネ・アルレドンドからタイトルを奪った試合をテレビで見たような曖昧な記憶があるだけで、私にとってボクシングは無縁の世界であった。
スピードあるパンチと小気味いいフットワーク、きらびやかだがセンスの良いコスチューム、鬼塚勝也が全身から発するオーラのようなモノが私の心を掴んではなさなかった。
翌日には本屋へ走り、ワールドボクシングを手にしていた。
高校受験が一段落つくまで、ジムに通う事は無理だ。しかし、何かをしないと落ち着かなかった。
クラブチームでサッカーをやっていた友人に声をかけ、朝のランニングをはじめた。
高校の合格発表の日に、合格を確認したその足で某大手ジムに行き、入会したものの、リングの上の華々しさとは正反対の地道な練習がそこにはあった。
中学生の頃は運動部に在籍していたが、それとは違う次元の練習がボクシングジムにはあり、半年も経つと、自然とジムへは行かなくなった。
自分を追い込むなんてことは一生したくないと思っていた子供だった。
私の通っていた学校は、小田急沿線にあり、クラスメートの1人が下北沢のジムに通っていた。
彼とボクシングの話をするにつれ、ジムに通いたい気持ちが膨れ上がっていき、半年のブランクを経て、私も下北沢のジムに通うようになった。
16の春だった。
プロの方や、仲間達と少しづつ言葉を交わすようになり、毎日通う事が楽しくなった。
そして、数カ月経ったある日、初めてのスパーリングをすることになった。
カビ臭いヘッドギアを被り、汗で湿ったグローブに手を通すと、自分がとんでもないところに足を踏み入れようとしているのだと初めて自覚した。
同学年だったスパーリング相手は、ジムでは普段、仲間として会話を交わしている男だった。
ラウンドの開始を告げるブザーが鳴る。
リング中央に進んだ2人とも、鏡の前で繰り出すようなパンチを空に放つだけで、当たる距離には近づかない。
まともに顔面を殴られる感覚がどんなものなのか、想像する由もなかった。
それは、彼も同じだったようで、相手がパンチを放ってくると、お互いリングの上を逃げ回った。
高校生達の情けない姿に、たまりかねたマネージャーから、
「お前らかっこつけでやるならやめちまえ!リングから出ろ!」
厳しい口調で叱責され、1ラウンドも終わらぬ間に二人ともリングから下ろされた。
グローブを外されている間、言いようのない安堵感に包まれていた。
私は明らかにカッコつけでボクシングをやっていた。
友達に、ボクシングジムに通っている事を誇らし気に話す自分に満足していた。
「俺は何をやっているんだ・・・、」
複雑な気持ちで電車に揺られながら、次第に、悔しさがこみ上げてきた。
意気地のない自分から目を逸らしては、先には進めない。
翌日も私はジムへ行った。
バンテージを巻いていると、昨日の相手もやってきた。
前日に醜態を曝した2人の高校生の姿を確認したマネージャーは、険しい表情で、
「今日もスパーリングやってみるか?」
と声をかけてくれた。
「やりたいです。」
2人とも即答していた。
その瞬間、マネージャーの表情に、隠しきれぬ笑みがほんの一瞬だけ浮かんだような気がした。
臆病な自分の中にある大きな壁を乗り越える為に、湿ったグローブをつけた。
ブザーが鳴ると、どう殴ったらいいのかがわからない。
そして、何よりも殴られるという事が怖かった。
前日同様、見合い続ける高校生に、
「お前らダンスやってんじゃねーんだよ!」
マネージャーの声がとび、その声がスタートの合図となるかのように、私は腹を決めて右のパンチを振るって相手に殴りかかった。
毎日してきた練習は無駄ではなく、気がつけば左右のストレートを無心ではなっていた。
鼻にもらったパンチが脳みその芯まで”ツーン”ときた。
初めて味わうパンチの味だった。
息はあがっていても手をとめたら殴られる、そう思うと鉄アレイのように重く感じるグローブを持ち上げ、必死にパンチをくり出すしかなかった。
ゴングが鳴り、長い2Rがようやく終わった。
おぼつかない足取りでロープをくぐりリングを下りると、Tシャツが鼻血で真っ赤に染まっていていることに気がつく。
その赤く染まったTシャツがやけに誇らしく思え、鼻をすすぎながら洗面台に流れ落ちる血を見て”ニヤリ”とした。
帰りの電車の中、ボーッとする頭でつい先ほどおこった出来事を思い返しては、一つの大きな壁を乗り越えた気がして、溢れ出る笑みを隠す事が出来ず、ニタニタしていた。
パンチを顔面に喰らうということがどんな事なのか、それを知ってからは、スパーリングが楽しくなっていた。
強い選手達のビデオを何度も見て、どうすればパンチをもらわずに相手を殴れるのか、考え、練習で体に覚えこませた。
初めてのスパーリング相手の彼とは、その後も何度か手を合わせるが、少しづつパンチをもらわなくなり、大学生や年上の人と手を合わせても、自分のパンチでひるむ相手にささやかな充実感をおぼえていった。
『プロになりたい。』
生まれて初めて自分で掴んだ確かな思いが、私の中に芽生えはじめていた。
(文中敬称略)